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3TFS / 90TFS  (F-4E/G)
今やフィリピンに米空軍の実戦航空部隊は無いが、歴史上アメリカとフィリッピンの関係は長く 1898年のパリ条約で当時2000万ドルでそれまで植民地支配していたスペインから譲り受けたことから始まる。ここからアメリカのフィリピン支配が始まるのだが、当時列強と呼ばれた国々の植民地拡大策が進むにつれ 多くの天然資源を擁する東南アジア各地の利権確保の為 西太平洋の軍事的な要所として注目されるようになった。クラーク空軍基地も 元々は牧草地だった平原を1900年代の初頭から飛行場として拡大して行き 最初の機体は1912年に配備されている。それから 続々と部隊は拡大され太平洋戦争勃発前にはB-17重爆撃機までが配備されていた為 1941年日本軍のフィリピン攻略の際は最初のターゲットとなった。戦後は、1946年から 13空軍(13AF)がクラークAFB(Clark AFB)に本拠地を置き 東南アジアににらみを利かす拠点であった。1947年にフィリピンは独立を果たすが フィリピンとアメリカの軍事条約によりその後も米軍基地として使われた。ベトナム戦争時は、補給および出撃の拠点として重要な役割をおっていたが、植民地時代の幻影は消え去ることがなく 米軍の存在に反対するフィリピン人によるテロなどは後を絶たなかった。終止符を打ったのは、マルコス政権の崩壊とピナツボ火山の大噴火だった。火山による煤煙で基地として使用不能な状態になり、しかもアキノ政権により軍事条約の継続ができなくなった米軍は 1991年最も重要であったスビック海軍基地も含めフィリピンから全面撤退したのである。これにより植民地化から始まり100年続いたフィリピンでの米軍のプレゼンツは消えてしまった。

↑ 上3枚の写真は、長年の友人である松野氏のご許可を頂き 彼のコレクションから展示させて頂いたもので、1989年4月9日に横田に飛来したエジプト-1塗装のF-4E 2機である。

Wings
グァム島のアンダーセン空軍基地内に 展示されたF-4E(PN-13/AF-0392)。2004年9月12日のOpenhouse時に撮影したものである。私の撮れなかったエジプト-1と言うタイプの塗装であり3rd TFWのF-4E/Gが最後に纏った塗装であった。この前日は、9.11の三周年に当たった為 基地内の警戒は厳しく 基地内の駐車スペースに向かう参観客の車列に対し あちこちから軍用車の車載銃の銃眼が向けられていた。少しでも変な動きが有れば即発砲されるそうな雰囲気であった。日本国内であれば国民に銃口を向けるようなことはできないが、アメリカではまかり通るようだ・・・・

↑ 1987年 航空自衛隊千歳基地で開催されたキーンエッジ 87-1に参加したF-4E/68-0341。この機体は、 後に韓国空軍に売却された。

米空軍の航空機は、1980年代中期から後期にかけて戦闘機だけでなく輸送機に至るまでヨーロッパの森林の溶け込む”ヨーロピアン-T”と言う塗装に変わっていった。1984年以降、ピタッと日本への飛来が少なくなった第3戦術戦闘航空団も一斉にこの塗装に衣替えし、1987年頃からキーンエッジなどの訓練で再び日本本土に姿を現すようになった。 

↑ 1987年4月クラーク基地のランウェイ工事などの都合で大挙して沖縄の嘉手納基地に飛来した3rd TFWのF-4E/G。その中でこのF-4Gも暗いヨーロピアンT仕様で塗られた新たなスタイルで訓練に参加していた。但し、インシグニアは未だカラーのものを使っていた。

↑ 上のF-4Gと同じ時期に3rd TFWの司令官機として指定されていたF-4E/73-1203で1988年1月に横田基地にも飛来している。F-4Eの後期生産型で左翼に筒状の形をしたカメラを付けている。横田飛来時には、パッケージポッドを両翼下につけていたが、シャークマウスが書かれていたそうだ。